大本山總持寺と建功寺の関係

わが宗門、曹洞宗においては、福井にある大本山永平寺と横浜にある大本山總持寺とを両大本山と言います。明治31年(1898年)、当時石川県の能登にあった大本山總持寺は不慮の火災にあい、伽藍のほとんどを焼失してしまいました。
その後、本山再建問題で首都圏への移転の声がおこり、有力な候補地として鶴見の成願寺(建功寺の末寺)があがりました。
明治39年(1906年)、能登の門前町より、鶴見への本山移転が正式に決定され、当寺の15世宏道和尚が本山移転に多大な尽力し、その功績により、明治40年、大本山總持寺貫首である石川素童禅師より、本山近門寺院に列せられ、永代色衣着用の寺格を特別に許されました。

諏訪家と建功寺

建功禅寺は、永禄3年、(1560年)小田原の北条家に仕えていた五代目寺尾城主諏訪三河守右馬之丞(助)が開基のお寺です。諏訪氏の菩提寺を建立することを思いたった諏訪三河守右馬之丞(助)は、現在、伊勢原にある龍散寺の大州長譽和尚を迎えて、建功寺を建てられました。これがこれまで伝えられてきた伝承です。しかし、近年新たな事実が明らかになってきました。本寺である龍散寺の開基は神保宮内卿輝廣公であります。輝廣公は正式な記録には残っていませんが、伊勢早雲(北条早雲)の子で氏綱の舎弟と言われています。この輝廣公は、北条氏綱の子どもである氏康と為昌(玉縄城主)の三代目跡継ぎ問題が持ち上がった折に、為昌を跡継ぎに押した中心的人物でありました。しかし、氏康が三代目を襲名した後に、輝廣公と、弟の輝展は蟄居出家させられました。それが龍散寺の起源であります。また、輝廣公の跡取りであった神保孫三郎も出家をさせられ、結果的にはお家断絶となりました。その神保孫三郎が出家させられ諏訪家の監視の元で、建功寺三世となった瑚州恕珊和尚であります。その監視役を務めたのが建功寺二世の聲庵守聞和尚(龍散寺四世)であります。
山号の徳雄山とは、諏訪三河守右馬之丞(助)の武士としての勇ましさ、『徳勇』が後に徳雄に変わったものです。五代目寺尾城主が寺院としての伽藍を整える以前は諏訪家の菩提所として、『瑞雲院』と呼ばれており、その名の由来は、北条早雲の正式名の『宗瑞北条早雲』から、『瑞』と『雲』の2字を賜り『瑞雲院』として忠誠を誓ったと言われています。
寺号の建功寺とは、開基である、五代目寺尾城主諏訪三河守右馬之丞(助)の武勇をたたえ、その功績をもって建立した寺として建功寺とし、正式名を『徳雄山瑞雲院建功襌寺』と呼びます。
諏訪氏が開基である証として、諏訪氏の家紋である『諏訪梶』が替紋として建功寺の寺紋として現在も伝えられております。

本山よりの許諾

開基、諏訪家の紋。建功寺の紋は「諏訪梶」に由来する

諏訪大社(上社・下社)紋