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「庭」は、私自身の中で重要な位置づけを持っている。

多くの人々にとって、それは観賞をする対象であったり、草花を植え楽しむ場であったり、或いは家族や親しい人々とパーティーを楽しむ場であったりする。

しかし、私にとっての「庭」は、このどれにもあたらない。

かつて動乱の世を生き抜いた傑出した禅僧がいた。
僧としても国師の称号を受けた高僧であり、庭造りを得意とし数多くの名庭を残 した僧。その名は夢窓疎石(1275-1351)である。

疎石いわく、「山水に得失なし、得失は人の心にあり」。
これは、庭を造る技術より、造るということに込められた求道心が重要である、と説いている。私にとっての庭とは、きっと、疎石が庭に求めたものと同じ存在なのである。

私は日頃「庭」を「心の表現」の場だと言っている。
それは二つに分けることができる。
その一つは、禅僧として今日まで修行を重ねてきた私自身の心の表現、即ち「自己の表現」。
二つ目は、客をもてなす亭主の立場に立った「心の表現」である。

室町時代に大徳寺の住職を務めた一休宗純という禅僧がいた。その一休和尚のもとに当時の優れた文化人達が集まり、教えを請い弟子となった。

その中には、後に今日の茶道の基を築いた村田珠光がいる。珠光は禅僧の行なっている「自己の表現」に、亭主としてのもてなしの気持ちを加え、禅と茶の関係をより深いものにしていった。
私はこの二つの精神的表現を総称して「心の表現」と言っている。

そもそも禅では、「心の状態」という目に見えないものを象徴化し何かの形に置き換えて自己を表現しようとする。即ち、これが「自己の表現」である。その方法は墨絵・書・庭等様々であるが、表現しようとするものは常に変わることはない。
従って禅者にとって「自己の表現」の手法は問題ではない。自分の得意とするものを選べばよいだけのことである。

私は自分で庭のデザインを行う時、現場での指導に当たる時、また古い庭園を眺める時にも修行と思って取り組んでいる。

禅の教えの中に「毒蛇が水を飲めば毒になり、牛が水を飲めば乳になる」という言葉がある。言い換えれば、庭を毒にするも乳にするのも私次第ということである。

庭づくりというものは、おそろしいものであるが、また面白いものでもある。従って私が庭を造る時、私自身の力量を超すものは出来ない。これまでの修行によって出来上がった今の私そのものが庭となって出来上がるだけのことである。庭は私の分身、私の心を写す鏡。私が卑しいことを考えていれば卑しい庭しかできず、未熟であれば未熟な庭しかできない。近頃この怖さがよく分かるようになってきた。また一方で、先達の造った庭を眺める時も、今の力量分しか見ることができない。

時を経て同じ庭を見る時、必ず新たな感激や感動がある。私にとって「庭」は造ることも、眺めることも修行であり、またその道場なのである。


「歩歩是道場」 枡野俊明

合 掌

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